鏡を磨いて ― 山花ひとりがたり

川端康成を始めとする日本文学や、日本思想をテーマに、徒然に考えてみたことを綴ってゆきます———。

つれづれに川端康成について書く Ⅰ

 最近めきめきと勉強意欲が沸いてきたおかげで、久しぶりにブログに寄稿することにしました。原点に返ったつもりで、今回は私の読書好きのきっかけである、文豪・川端康成を好きになったきっかけについて綴りたいと思います。題して、「つれづれに川端康成について書く」です。

 

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 私が初めて読んだ川端の文章は、昭和44年に彼がノーベル文学賞の授賞式にて行った講演である『美しい日本の私』でした。高校1年生の時に親が貸してくれた本で読んだのですが、あまりに高尚な内容かつ文章であったので、5行くらいで止めてしまいました。今を思えば、少し早すぎたのかもしれません。時は流れて大学生になり、その頃と比べれば多少は日本思想や日本文学についての知恵や知識も身に付けました。初めて岩波文庫川端康成随筆集』を買い『美しい日本の私』を読むと、そこには以前とは違う美しく感慨深い世界がありました。

 

 四季折々の自然に恵まれた日本は、自然に畏敬の念を抱いたり、祭神として祀ったり、自らの心情を自然の景物に重ねて歌を詠むなどといった文化を培ってきました。こうした風土に仏教が取り込まれてからは、「自然と一体である」という境地へと踏み込んでゆくのですが、こうした境地は、今日まで伝えられる武士道や茶道などの伝統文化・精神の思想的源流として息づいています。

 さて、川端は、そんな日本を文学という視点で切り取り私達に語ってくれます。それが『美しい日本の私』『美の存在と発見』『ほろびぬ美』などの随筆です。仏教にはまっていた私は、これらの随筆を目を皿にしながら、感激しながら読みふけりました。かつて遠いインドで興った仏教が、形を変え日本でこういう姿になったということに私はやんごとなき運命を感じますし、そんな日本に残る自然や文化、習俗に無性に惹かれるのです。

 

 そんな日本の文学について、川端の文章を二つ紹介します。

 それはまあ文化の交通地獄のなかを乗切るようなものですが、その今日をむかしにくらべまして、わたくしはふしぎな思いをする時があります。(中略)平安から江戸までの古典の世界では、おなじような古典が流れ通り、呼び交わし、織りまざっています。日本文学の伝統の脈です。それが明治の西洋文学の移入によって、脈が切れたかのよな、別の血の脈が通ったような、大きい変革に出会うのでありますけれども、わたくしは古典の伝統の脈がやはり通っているのを、年とともに感じるようになりました。*1(「日本文学の美」より)

 〈日本文学に一貫して通じる脈〉とは何でしょう。文学史を高校で勉強しましたが、「明治から文体から主題から丸ごと変わってるんや…」と思わず溜息が漏れたことを覚えていたのですが――。一見「無常」のように見える、神秘的かつ不変な美があるのでしょうか。「もののあはれ」のような、日本人のみに一貫して流れる感性があるのでしょうか。凡人の私には到底覗くことができません――。

 次は、あの『美しい日本の私』に登場する一節です。

(筆者注:良寛の辞世「形見とて何か残さむ春は花山ほととぎす秋はもみぢ葉」に触れて)

 (前略)草の庵に住み、粗衣をまとい、野道をさまよい歩いては、子供と遊び、農夫と語り、信教と文学との深さを、むずかしい話にはしないで、「和顔愛語」の無垢な言行とし、(中略)現代の日本でもその書と詩歌をはなはだ貴ばれている良寛、その人の辞世が、自分は形見に残すものはなにも持たぬし、なにも残せるとは思わぬが、自分の死後も自然はなお美しい、これがただ自分のこの世に残す形見になってくれるだろうという歌であったのです。日本古来の心情がこもっているとともに、良寛の宗教の心も聞こえる歌です。*2(『美しい日本の私』より)

 「自分の死後も自然はなお美しい」。この言葉は特に響きます。寂寥の感ではない、満ち足りた幸せな気持ちを私はこの歌を読んで感じました。

 

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 よく近代文学を読むとき、私は主人公や登場人物が自らの哲学的疑問に向き合い苦悶するさまを想像します。例えば夏目漱石の『こゝろ』や芥川龍之介などがそうでしょうか。そして、そんな作品というレンズを通して、作者が自らの思索に没頭する姿が覗けそうになるときもあります(これに共感してくれる方がいると嬉しいです)。ですが、川端の小説からその姿を看取するのはなかなか難しかったです……。『伊豆の踊子』には何となく思いを馳せましたが、『千羽鶴』や『眠れる美女』では全くでした。

 こうした経験から、私は、川端にはほかの文豪とは別の流れがあり、唯一無二の存在感を持っているのだなと信じるようになりました。そして、その川端の唯一無二の存在感は、先ほど記したような川端の古典文学への造詣と、日本思想に対する深い理解からもたらされているのでしょう——。

 

 これが、私が川端が好きな第一の理由です。川端と日本思想については以前に違う文章を書きましたので、併せて読んでみてください。(了)

 

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【参考資料】 

*1:川西政明編(2013)『川端康成随筆集』 岩波文庫 p.48

*2:川西政明編(2013)『川端康成随筆集』 岩波文庫 p.99