漱石、令和に警鐘を鳴らす―『私の個人主義』
「わたしの本棚」では、その月に読んだ本、もしくはどうしても色々綴りたくなった本について感想文や紹介文などをあれこれ記していきます(注:ネタバレがあるかもしれません、ご容赦ください)。ただし、今回はやや評論みたいな口ぶりになっているので、「想いを馳せる」のタグも付けています。
先日古本市がありまして、バーコードの無い懐かしい文豪の作品が多く並んでいたので思わず買い込んでしまいました。当初は川端作品と仏教関連の本と思っていましたが、以前から気になっていた夏目漱石の『私の個人主義』が所収された岩波文庫があったので思わず手に取りました――。
「個人主義」とは「社会や集団の意義よりも、個人の価値を重視し、その自由・独立を尊重しようとする立場」と定義されている*1、評論文では近代からの重要語句であります。漱石は、明治当時は西洋の価値観が無批判に流入されている現実を見て、日本人の一個人として独立した見識を持つ必要があると考え、思索を重ねた結果、「自己本位」という立脚地を固めたのでした。
そして講演は後半に移り、漱石は、この過程を経て導き出された「個性」を発揮するときにしなければならぬこととして次の三つを挙げます。
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自分の個性を伸ばすと同時に、他人の個性を尊重すること。
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権力を行使するならば、付随する義務を心得ること。
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金力*2を示すならば、それに伴う責任を持つこと。
私が予備校時代に使っていた現代文のテキストには、個人主義は利己主義と違い、とても厳しい原理であると解説していましたが、それを何となく理解することが出来ました。権利と義務・責任を厳格に述べた部分は、法という概念の生まれた西洋らしさを感じます。「相当修養を積んだ人間でもない限り、この主義を体現し推し進めることはできないだろうな――」と感じるばかりでした。
上で紹介している『漱石文明論集』にある他の講演を見ていても、漱石は実際に西洋の価値観を留学を通して体験しているからか、今まで読んできた人達とは少し質の違う論を展開していたのでとても興味深かったです。
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さて、少し話題を変えます――。
私がTwitterを始めてすぐ印象に残った出来事は、実に多様な方が活発に言論を発信しているさまを目の当たりにしたことです。また、世の中にはどのような問題が潜んでいるのかを知ることができることも利点の一つだと思っています。
しかし、始めてから半年経ってから、私は随分語気の強いに段々目が行くようになりました。センセーショナルな口ぶりや理屈はどうしても目を引きますから。その中でも気になったのは、自分の主張に相反する人を「アンチ」と云って切り捨てたり、揶揄したりしている呟きです。
異なる意見が存在し、歩み寄るためにまた一つに方針を定めたりするために議論を行うことはあるでしょうし、積極的に行われるべきです。ここでおざなりになりがちなのは、そして哲学臭くなりますが、「思想や信条に覆われた中には等しく命があり、その尊さはそもそも変わらないということ」です。本当に傷ついている人のために立ち上がるためには、こうした事実が身に染みて理解していることが欠かせません。
どうして身に染みていなければならないかというと、それが行き過ぎた行動を抑える釘になってくれるからです。頭で表面的に理解しているだけでは、「革命のためには必要な犠牲だ――」と理屈でゆがめてしまうおそれがあります。
私がこうした観念を持っているため、昨今の、自らの運動を起こすために敵対する「個人」を攻撃する運動を見ると実に眉を顰めてしまいます。最近私が覚えている、どぎつくてびっくりしたのは、「こうした人間は××党の施設で再教育した方が良い」というものでした(名の知れた有名人もこうした言動をするのですから、少し恐ろしくなります…)。
女性運動やLGBT運動など、権利の獲得を求める動きはこれからも進んでいくでしょうから、先程述べた〈思想以前の人格は理屈抜きで尊重すべきという理解〉をしっかり根本に据えておかなければなりません。余計に争いが生まれるでしょう。こうした時代だからでしょうか、この『私の個人主義』は実に他人事でない、誰しもが一度考えておくべき問題を述べているように見え、大変勉強させられます。
まさに、「漱石、令和に警鐘を鳴らす」という様相でした――。