鏡を磨いて ― 山花ひとりがたり

川端康成を始めとする日本文学や、日本思想をテーマに、徒然に考えてみたことを綴ってゆきます———。

川端文学と禅との親和

 知り合いの少年の激励会に参加するため、少しばかり帰省していました。親が世話になっている女性に唆されてその少年の旅行に同行することになったのですが、それについては機会があれば書いてみたいと思います。

 大阪行のサンダーバードで私は谷崎潤一郎川端康成』(三島由紀夫を読了いたしました。本書は、川端康成という人物の徹底的な解剖がなされており、「いかに川端が唯一無二の人物か」「いかに三島が川端を敬愛していたか」がわかる実に贅沢な内容です。新潮文庫の『伊豆の踊子』以来すっかり三島の解説の虜になっていた私には、とてもいい買い物でした。

 さて、今回は三島由紀夫の川端論から私が感じた「川端文学と禅との親和」についてのお話です。

 

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 川端康成と言えば、ノーベル文学賞受賞式における講演、『美しい日本の私』がとても有名ですね。文学を始めとする日本の芸術と禅のような伝統精神との関係がとても詳細に述べられているのですが、私が特に印象に残っているのは次の一節です。

禅寺にも仏像はありますけれども、修行の場、坐禅して思索する堂には仏像、仏画はなく、経文の備えもなく、瞑目して、長い時間、無言、不動で坐っているのです。そして、無念無想の境に入るのです。「我」をなくして「無」になるのです。この「無」は西洋の虚無ではなく、むしろその逆で、万有が自在に通う空、無涯無辺、無尽蔵の心の宇宙なのです。*1

 禅について、いや東洋思想についてこれほどの説明を僧以外から聞いたことがありません。禅では、坐禅や禅問答(これは臨済宗だけ)に徹することで、自分を縛るすべての苦しみや囚われから解放された境地を目指しているのですが、その境地を表す有名な言葉の一つがこの「無」です。

 私達はともすれば自分の世界に入り、それに沿うように物事に向き合ってしまいますが、いつかはその限界を突き付けられる日がやって来ます。この世界を氷解させればこの苦痛を脱し、あるがままの自分や今の環境(数多と変化する)が有難く感じられると、「無」を多少自覚できるのではないでしょうか。

 この精神は、例えば和歌では虚空のような心で眼前の自然に向き合い、余情や幽玄を重んじて歌に詠んだり、華道では割れた花器や枯れた枝から「花」を見出したり、庭園では繊細微妙な感性で、海など大きな自然を表現しようとしたりなど、日本の芸術に脈々と受け継がれている、というのが川端の講演からうかがえます。

 古典文学や器からここまで見出すことができるとは——、文豪の眼は、とても常人のそれとは比べ物にならぬほど鋭く、また強い引力を持っているのでしょうね——。

 

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 三島由紀夫の『谷崎潤一郎川端康成』では、彼の川端康成論がいかんなく発揮されています。なかには面白い挿話もあったのですが、今回は省略致します(是非お買い求めください)。ここで、川端の文体に関する記述を少し長く引用致します。

 芭蕉のあの幻住菴の記の「終に無能無才にして此の一筋につながる」という一句は、又川端さんの作品と生活の最後の manifesto でもあろうが、川端さんの作品のあのような造型的な細部と、それに比べて、作品全体の構成におけるあのような造型の放棄とは同じ芸術観と同じ生活態度から生じたもののように思われる。

 たとえば川端さんが名文家であることは正に世評の通りだが、川端さんがついに文体を持たぬ小説家であるというのは、私の意見である。なぜなら小説家における文体とは、世界解釈の意志であり鍵なのである。混沌と不安に対処して、世界を整理し、区劃し、せまい造型の枠内へ持ち込んで来るためには作家の道具とては文体しかない。ブロオベルの文体、スタンダールの文体、プルウストの文体、森鴎外の文体、小林秀雄の文体、……いくらでも挙げられるが、文体とはそういうものである。*2

 文体にこのような力があるとは……。川端は眼前の世界を自分の意図を以て説明しなかったということでしょうが、このようなことが成し得ることがとても驚きです(私の場合、何かを文章で説明しようとするとついつい恣意的になりがちですから)。上にも書きました通り、個人の観念を通さないで世界を直覚することを説くことは禅に見られる特徴なのですが、この川端の姿勢はまさにこれに適しているのです。

 これは作家にとって重要なことで、三島は横光利一を引き合いに出して次のように述べています。

 氏の感受性はそこで一つの力になったのだが、この力は、そのまま大きな無力感でもあるような力だった。何故なら強大な知力は世界を再構成するが、感受性は強大になればなるほど、世界の混沌を自分の裡(うち)に受容しなければならなくなるあらだ。それが氏の受難の形式だった。

 しかしそのときもし、感受性が救いを求めて、知力にすがろうとしたらどうだろう。知力は感受性に論理と知的法則とを与え、感受性が論理的に追いつめられる極限まで連れて行き、つまり作者を地獄へ連れて行くのである。やはり川端さんがきらいだと言われている小説「禽獣」で、作者ののぞいた地獄に正にこれである。「禽獣」は氏が、もっとも知的なものに接近した極限の作品であり、それはあたかも同じような契機によって書かれた横光利一の「機械」と近似しており、川端さんが爾後(じご)、決然と知的なものに身を背けて身を全うしたのと反対に、横光氏は、地獄へ、知的迷妄へと沈んでいくのである。 *3

 考えただけで文学者が陥りかねない(否、私達にとっても他人事ではないかもれない…)地獄が恐ろしく感じられますね。こうした迷妄に沈んでいかなかった川端は、何と稀有な存在なのでしょう——。三島由紀夫の川端評を読んでいると、無私といいますか、あらゆる観念や事象を自らの内に取り込むことが出来る、鷹揚でありながら繊細な哀しさを持ち合わせた人物であると考えさせられました。

 

 『美しい日本の私』で語られた、個人の観念に依らずに自然を直覚する日本文学の美を、川端は自らの文学の中でも体現していたということがいえるようです。そして、この精神は、自己を離れ大きな自然と同一させる禅(否仏教)にも通じているともいえるでしょう。

 禅の持つ無限性と、川端康成の持つ感受性は、意外にも親和性があったということが、今回三島由紀夫の解説で何となく解することが出来ました。研ぎ澄まされてきた彼の感性が、見事日本に遺る精神と調和したことは、まるで運命のようです。それだけに、残されている数々の逸話*4や彼の文学を見ても、「日本の体現者」川端康成自死が悔やまれますね——。 (了)

 

〈今回参照した書籍はこちら〉

 

谷崎潤一郎・川端康成 (中公文庫)

谷崎潤一郎・川端康成 (中公文庫)

 

川端康成随筆集 (岩波文庫)

川端康成随筆集 (岩波文庫)

  • 発売日: 2013/12/18
  • メディア: 文庫

*1:川西政明編(2013)『川端康成随筆集』 岩波文庫 p.104

*2:三島由紀夫(2020)『谷崎潤一郎川端康成』 中公文庫 p.157

*3:三島由紀夫(2020)『谷崎潤一郎川端康成』 中公文庫 p.159~160

*4:よろしければこちらをご参照あれ

ja.wikipedia.org