鏡を磨いて ― 山花ひとりがたり

川端康成を始めとする日本文学や、日本思想をテーマに、徒然に考えてみたことを綴ってゆきます———。

言葉あれこれ

 読書垢の方々の言葉にまつわる呟きを見ては、「えぇことゆうなあ……フムフム」と思っている日々なのだが、たまたま谷崎潤一郎の『文章読本』を再読して、ふと自分も考えてみたくなった。

 

     *        *        *

 

まず視覚的効果の方から申しますならば、「アサガオ」の宛て字は「朝顔」と「牽牛花」と二た通りありますが、日本風の柔かい感じを現わしたい時は「朝顔」と書き、支那風の堅い感じを現わしたい時は「牽牛花」と書く。*1

 これは『文章読本』で印象に残った一節である。言葉が示しているものはその対象一つだと思っていたため、文字から受ける印象は考えてこなかったが、言われてみれば尤もな話だ。それに、示している対象が一つながら、それを形容する言葉が二つ以上あることはとても面白い。

 ところで、もし「朝顔」という言葉を聞いて柔らかい印象を受けた場合、「牽牛花」で受ける堅い印象を受けることはできない。どちらもあの青紫色した花を現わしている言葉のはずなのに、その言葉を聞くだけでは完全にその花の全体像を悟ることはできない。果たして、言葉だけで花の姿を全て悟ることはできるのだろうか――。そもそも、その言葉で規定した花の姿は果たして正しいのであろうか――。

 

 私は、言葉は「虚仮」なものであると思っている。それは、どれほど我々が表したいものを言葉であれこれ定めようとしても、決してそれが、本来の姿や真実の姿(ちなみに本稿では、説明のために、これを「実在」と定義しておく)をあらわすことはないからである。具体的な例えをするために、再び、谷崎先生にご登場願おう。

左様に、たった一つの物の味でさえ伝えることが出来ないのでありますから、言語と云うものは案外不自由なものでもあります。のみならず、思想に纏まりをつけると云う働きがある一面に、思想を一定の型に入れてしまうという缺点があります。たとえば紅い花を見ても、各人がそれを同じ色に感ずるかどうかは疑問でありまして、眼の感覚のすぐれた人は、その色の中に常人には気が付かない複雑な美しさを見るかも知れない。その人の眼に感ずる色は、普通の「紅い」という色とは違うものであるかも知れない。しかしそう云う場合にそれを言葉で現わそうとすれば、とにかく「紅」に一番近いのでありますから、やはりその人は「紅い」と云うでありましょう。つまり「紅い」という言葉があるために、その人のほんとうの感覚とは違ったものが伝えられる。(略)返す返すも言語は万能なものでないこと、その働きは不自由であり、時には有害なものであることを、忘れてはならないのであります。*2

 言葉に囚われすぎると、すでに体感したはず(もしくはこれから体感する)の「実在」すら遠ざかってしまうおそれがある。よく私の周りにはだれかの言葉を聞いただけでそれを全て理解したような口を聞く人がいるのだが、実感が伴っていない話し方をするので、果たして全容を理解しているか不安に感じる。これもある意味、「虚仮」の領域に留まって「実在」まで体得していないからかもしれない――。

 

     *        *        *

 

 ここまで、言葉はあくまで「虚仮」の姿をしていることを叙してきた。妄想に囚われないためにも、我々は言葉を「虚仮」のまま腑に落とすのではなく、「実在」を体得せねばならない。先程の「アサガオ」で例えるならば、「朝顔」という言葉を目にして、心の中にあの青紫色した花の柔らかい姿を浮かべることが大切であって、決して「あー、朝顔の花があるんだね―(棒)」で終わらせぬよう注意する必要がある。

 ものの「実在」を知る方法は、それを体験することに尽きる。アサガオで云えば、実際に花を見てそれのもつ姿を感じ取ることが、言葉を「虚仮」のまま終わらせない方法であろう――。ただしそのとき、決してそのとき知覚したものが、その「実在」だと決め込んではならない。それが新たな妄想のもとになるからである――。

 

 ちなみに、このことを考えてから、ずっと昔に聞いた山田無文老師*3による『臨済録』の提唱をまた違った角度で聞くことが出来た。『臨済録』に似た話があるとは、つくづく私は禅宗と縁があるものである(いつか『臨済録』についても触れてみたい)。

  www.youtube.com

 

 ここまで色々と綴ってきたが、かくいう私も空論を弄している弊がある。面白いのは、そのとき書いた文章は必ず読んでも何の感動もない。ある相互フォローの方に云わせれば、「詩がない」のであろう。空想に時間を割くばかりでなく、毎日の生活で色々心や体を働かせることが実は、洞察力や語彙を磨く教材なのかもしれない。

 文章修業の旅は長いネェ・・・(了)

文章読本 (中公文庫)

文章読本 (中公文庫)

*1:文章読本』(谷崎潤一郎著・1975・中央公論新社)p.180

*2:文章読本』(谷崎潤一郎著・1975・中央公論新社)p.19-20

*3:臨済宗の名僧(1900-1988)。愛知県生まれ。天龍寺で雲水として修行して後、妙心寺山内の霊雲院の住職になる。花園大学学長、禅文化研究所所長などを歴任した。著作に『自己を見つめる』『十牛図』など