鏡を磨いて ― 山花ひとりがたり

川端康成を始めとする日本文学や、日本思想をテーマに、徒然に考えてみたことを綴ってゆきます———。

境界線を取る — 岡潔『春宵十話』

 『はじめに』という駄文を綴ってからこの文章を掲載するまで、文筆家のようで良い気分になっては、書く内容につまってすぐに現実に引き戻される、ということを繰り返した。今回は肩慣らしのつもりで、先日Twitterにて相互の方と談笑したときにこぼした、岡潔の『春宵十話』にまつわる体験談を語ってみる。

我を出せば損する、という言葉

 浪人生の時、半年間だけ飲食店でアルバイトをしていたときのことだった。そこの御主人はいわゆる「職人」で自分なりの美学を持っており、面接で「社会勉強」と常套句で云った私には、「社会とは・・・」ということを注意の傍ら語ることが多かった。

 厄介なことに、その哲学には相容れないものがちらほらあったため、私は時折頷けずにいた。直情径行の悪癖が出てしまったのである。その都度私は、「おかしなことをいっているか」と、詰られていた。

 ああ若かったなと、思い返しては苦笑いするたびに、

 〈なぜ手前みその価値観を有無を言わさず認めないかんのや。思い上がりもええ加減にせえ〉

 と、憤っていた当時が懐かしく、また微笑ましく思える。

 特に記憶にこびり付いて離れないのは、それから一週間のことだった。他のパートの人から気の利きようを褒められ、上機嫌になっていたらしい私は、うっかり主人に鼻歌を聞かせてしまう。不快だから止めろという言葉に、店主もよくしていることだ、という旨の言葉(もちろん慇懃に)と歯向かってしまうと、

 「俺とお前は一緒か?違うやんな。そんなことを云うなら・・・」

 と、説教された。悔しさが頭を一杯にしたか、あまり何を云っていたか覚えていないのだが、唯一覚えていたのは、

 「とにかく我を出したら自分が損するだのだから、相手の言葉には素直に従う。苦しくても、頑張れば上の人は見てくれている。言ってあげてるんやから、聞いといたほうが良いよ」

 という言葉であった。

滅私奉公の不条理さ

 〈理不尽に出来とるのお、なんやこの世の中は〉

 親にこう愚痴を云いながらも、この悲しみはなかなか癒えなかった。親から貰った盛永宗興老師(花園大学の元学長で、妙心寺大珠院元住職。1925-1996)の御本には、

あなたたちは、信ずるに足る存在なんだ。私は信じている。だから、あなたたちの主体性を尊重したい。あなたたちの自由を尊重したい。*1

 という有難い言葉があるのですが、

 〈ウチが尊い存在なら、なぜそんなに尊い存在が自分の人格を殺してまで他人が喜ぶために何かせないかんのや。滅私奉公なぞ、古い日本が育てた悪しき慣習や〉

 と、打ち捨ててしまう。全ては私の失敗から来たのだが。

相手の喜びを、自分の喜びに

 すっかりふさぎこんだ私はある日、図書館にて岡潔『春宵十話』に出逢った。数学者が日本人の情緒を語るとは面白いな、と思い読み進めると、ふとこういう一文が、私の眼に入ってきた。

宗教と理性とは世界が異なっている。簡単にいうと、人の悲しみがわかるというところに留まって活動しておれば理性の世界だが、人が悲しんでいるから自分も悲しいという道をどんどん先へ進むと宗教の世界へ入ってしまう。そんなふうなものではないかと思う*2

 「悲しい」は「喜び」に置き換えることも出来ると思う。ここでいう宗教の境地には、「人」と「自分」の間に境界線がない。

 それまで私は善行を、「自我を殺して相手の喜ぶことをすること」とばかり思っていたが、「相手がされて嬉しく、また自分も嬉しく思えるようになること」という価値観は初めてだ。すると面白いことに、今までいきり立っていたものは、突風と共にどこかへ飛び去っていき、何だかとても爽やかな気分になった。

 自分と自分以外との境界線を取ると、色んなものが新鮮なままで私の中に入ってくる。逢う人次第で自分がいくらでも変身できるようでとても面白い――。

日本思想の海へ

 「境界線を取ること」は、岡潔だけでなく、禅宗を始めとする東洋思想に通ずる概念である(このテーマは、今後取り上げるつもりである)。それから、先程の盛永老師の本の内容がすらすらと腑に落ちていくようになったばかりか、「私なんてどうせ――」という考えは、すっかりなりを潜めてしまった。

 こうして名著『春宵十話』は、私を日本思想の海へ連れ出した恩人となったのである。

 

 それから数日後、単純なもので、このことを私は嬉々として親に話していた。

 「・・・ということがあったんよ」

 「成長しとるね」

 「あの店主、このことまで見越してああ言ったんかな?」

 「いや、話を聞く限りそこまで分かってないと思う。自分好みの解釈にしたんじゃない?」

 「・・・あ、そう(言っちまったよ、この人は・・・)」

 ま、なにごとも「縁」である。

あとがき

 物語などで共感して思わず涙を流すということも、他人の悲しみを自分の悲しみと感じることの表れなのではないかと感じます。私は朴訥なので、その場にいる相手に応じて臨機応変に気の利いたことをする、という芸当はなかなか出来ません。なので、相手が嬉しそうに話しかけた時には、こちらも明るく応じる、といったことから始めています。

 あれからかなり経ちましたが、今岡潔は私にどんな示唆を与えてくれるのでしょうか。ようやく『春宵十話』を自分の手元にお迎えしたので、じっくり彼の思索に耳を傾けたいと思います。(了)

 

春宵十話 (角川ソフィア文庫)

春宵十話 (角川ソフィア文庫)

  • 作者:岡 潔
  • 発売日: 2014/05/24
  • メディア: 文庫

*1:盛永宗興(1996)『お前は誰か』p.155 禅文化研究所

*2:岡潔(1969)『春宵十話』p.49-50 株式会社KADOKAWA